日本語で「暮らし」という言葉を使うときは、単なる物質的な側面だけでなく、心の満足や生活の質、幸福感なども含めて、広い意味での日常のあり方を表現することが多いですね。人生も、「暮らし」に関連される言葉になるようです。
村上春樹氏のエッセイ、「うずまき猫のみつけかた」を読んでみました。
普段の私はエッセイの類はあまり読まないのですが、愛読している小説家の村上春樹氏のエッセイには興味を抱くようになりました。
興味深い文章が書かれていましたので、引用したいと思います。
僕は学校を出て以来どこの組織にも属することなく一人でこつこつと生きてきたわけだけれど、その二十年ちょっとのあいだに身をもって学んだ事実がひとつだけある。
それは「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」ということだ。これはあまり心温まる結論とは言えないけれど、しょうがない、間違いのない事実です。(中略)
でも、それでもやはり僕らは「いやはや疲れるなぁ」と思いながらも、孤立奮闘していかなければならない。なぜなら、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと、それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。
この文章を読んで、アマゾンのKDPで小説をリリースしている自分自身の身の振り方を考え、深い感銘を受けたのです。
無名の著者である私は、多くの読者から目を向けて頂けるような小説の書き手ではありません。それでも、村上氏の文章を読んで、書き続けていくことが「小説を書くことの意味」なのだと、読後感として勇気をもらったような気分になりました。
たとえ満足に小説が売れなくとも、読まれなくても、孤立奮闘していかなければならない。そのように思ってしまいます。引用した文章はおそらく、小説家として歩み続けることの決意、覚悟の表れの文章ではないかと推測しているのですが。また村上春樹氏の文章を読んでいて、ふと、ギリヤーク尼ヶ崎さんのことが頭に浮かんできました。
ギリヤーク尼ヶ崎さんは三十代後半になって大道芸人に転向した後、生計のすべてを観衆からの「おひねり」で賄いました。これで生活できなければ芸が未熟で芸人の資格がない、ということだと語ったそうです。しかし尼ヶ崎さん自身が「おひねり」で生活できるようになったのは、六十歳を過ぎてからのようでした。
遠い日のようにも感じられるほど過去のことですが、最寄駅から電車で十五分ほどかかるところにある大きな公園でギリヤーク尼ヶ崎さんの公演があることを知りました。私は迷うことなく行ってみることにしました。
公演終了後、奇遇にも近くのカフェでギリヤーク尼ヶ崎さんと数十分ほどお話をする機会がありました。
会話の合間に浮かべる、愛嬌のある笑顔がとても印象的でした。とても優しいまなざしをされる方です。そして何よりも、当時七十歳の御年にも関わらずとても若々しく思える綺麗な姿勢がでした。ギリヤーク尼ヶ崎さんのことを思い浮かべると、いまでも残像のように蘇ってきます。
切なくなるような、ロマンスが滲んでいる感覚を呼び覚ますような物語。そんな恋愛小説のかたちを描いてゆきたいと考えています。応援していただければ幸いです。よろしくお願い致します。
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